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吉原そして飛田新地、遊郭から始まった東西二大風俗街が生き延びるためにとっと道とは?!【松本雷太のニッポン風俗史講座 第11回「消えゆく遊郭、息づく遊郭」】

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変わる!赤線から産業地へ
娼婦から芸妓へ

飛田新地の中にある料亭「百番」は、本物の料亭として現在も営業している

 

現・飛田のヒントはアルサロと芸者遊び

◯遊郭を残すため飛田がとった道

 新業種の「トルコ風呂」に活路を見出した吉原に対し、同じ頃、大阪の飛田遊郭では、多数の特殊飲食店が、旧来同様の商売を貫く方針を固めていた。

 飛田遊郭の歴史は明治期に始まっている。1912年(明治45年)、難波新地にあった乙部遊郭が火災により消失すると、そこにいた業者が移転して現在の地で「飛田遊郭」が始まった。吉原と違うのは、空襲の戦火から逃れたせいで、今でも当時を忍ばせる建物が残る町の雰囲気だろう。

 その飛田遊郭が、売防法施行の下、選んだのは意外な道だった。当時、約200軒あった特殊飲食店は、売防法施行前の2月に廃業届を提出し、その内の55軒が翌月の3月には料亭として届出を提出したのだ。

 その理由は、それまでの遊女たちを芸妓に仕立て、料亭へ派遣する花街として復活の道を選んだのだった。

玄関前にニッコリ微笑んで座る〝仲居〟さん。客は歩きながら仲居を選んで上がる

 

遊郭が現代にそのまま残った客と仲居のロマンスの街

◯東西二大風俗街の大きな共通点

 しかし、置屋から呼ばなくてはならない煩わしさが不評となり、そこで当時、難波などで人気となっていた「アルバイトサロン(以下アルサロ)」を真似て、遊女を仲居として店の玄関に待機させるようにした。すると、これがウケた。

「アルバイト料亭」の人気の理由はもう一つあった。飲み物とおつまみが付いて15分ワンセットという明朗会計である。これは、現在の飛田新地の遊び方と同じである。違うのは、当時は多くの客が2セットで遊んでいたことと、布団ではなく、座布団を並べて敷いていたところである。

 売防法施行から約60年が経過した現在、巨大ソープランド街を形成した東京・吉原と、現在も昭和初期の面影を残す遊郭が残る街、大阪・飛田新地は、互いに違う業種で生き残っている。

現在も飛田新地の西側には大門の扉の支柱が残り、往時を忍ばせる

 吉原はなぜ、遊郭として残らなかったのか? 飛田はなぜトルコ風呂を受け入れなかったのか? を考えるよりも、「それぞれがそれぞれの地域で受け入れられる道を選んだ」と考える方が自然である。

 そして、ニッポンの二大風俗街が半世紀以上も続いていられる理由は、それぞれの街が定める厳格な規律をマジメに遵守することと、「客と仲居の自由恋愛」という、曖昧な建前文化の恩恵に違いはないようだ。

(記事引用元=ズバ王

 

 記事執筆◯松本雷太:フリーライター歴16年。イメクラ好き、ちょんの間好きの店舗型指向だが、当然、最近はデリヘル主流に。3年ほど前に比べると本番嬢は激減したと感じる五十路ライター。共著『死ぬまでに行きたい! 首都圏裏風俗編』が近著。

 

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