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吉原そして飛田新地、遊郭から始まった東西二大風俗街が生き延びるためにとっと道とは?!【松本雷太のニッポン風俗史講座 第11回「消えゆく遊郭、息づく遊郭」】

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世界に名立たるニッポンの『フーゾク』は、世界で唯一進化し続けているオンリーワンの存在だ。そんな日本の風俗史を探る第十一回は『遊郭の歴史』をたどる!

松本雷太のニッポン風俗史講座
第11回「消えた遊郭、息づく遊郭」

吉原遊郭が選んだのは、遊郭からソープランド街という新しい道だった

 

トルコ風呂の進出が街の運命を決めた

◯日本橋から浅草へ移転した吉原の歴史

 現在、台東区千束にある「吉原」の歴史は江戸時代まで遡る。1617年、幕府により日本橋人形町に「葭原 ( よしはら) 遊郭」として開郭されたが、1657年、明暦の大火により消失、現在の地へ移転した。

 その後も、関東大震災や東京大空襲などで被災したが、そのつど復興し、戦後は赤線へと移り変わった。当時、吉原では1200人の遊女が働き、料金はショートが300~1000円、泊まりが1200円前後。大卒の初任給が五千円の時代であるが、現在の価値に換算しても、そう変わっていないことがわかるだろう。

風営法の厳格化により、午前0時には吉原の街も人気がなくなる

 

遊郭から赤線、ソープ街へと風俗の王道を歩く日本一の色街

◯銀座から吉原へトルコ風呂の歴史

 その頃、ニッポンの風俗界に大変革が起きようとしていた。売春防止法(1958年、以下売防法)の制定である。これにより、日本各地にあった赤線は、旅館や料亭街などへ転業せざるを得なくなっていた。

 その時、「吉原」が選択したのは、当時、ブームとなりつつある「トルコ風呂」だった。 「トルコ風呂」は、1951年、銀座に一号店ができて以来、徐々に人気が上がり始め、売防法施行から3ヶ月後、吉原に「吉原トルコ」が開店するや、元赤線業者がこぞってトルコ風呂への転業を始めたのだ。

 1960年には16軒だったトルコ風呂は、東京オリンピック開催の前年(63)から急増し、75年には65軒、80年には150軒へと急増している。国際イベントを契機に店舗数を伸ばしたのは、現在とは真逆である。そして、1984年、トルコ人留学生の嘆願により、名称が「トルコ風呂」から「ソープランド」へと変わることになった。 

 

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