変わる!赤線から産業地へ
娼婦から芸妓へ
現・飛田のヒントはアルサロと芸者遊び
◯遊郭を残すため飛田がとった道
新業種の「トルコ風呂」に活路を見出した吉原に対し、同じ頃、大阪の飛田遊郭では、多数の特殊飲食店が、旧来同様の商売を貫く方針を固めていた。
飛田遊郭の歴史は明治期に始まっている。1912年(明治45年)、難波新地にあった乙部遊郭が火災により消失すると、そこにいた業者が移転して現在の地で「飛田遊郭」が始まった。吉原と違うのは、空襲の戦火から逃れたせいで、今でも当時を忍ばせる建物が残る町の雰囲気だろう。
その飛田遊郭が、売防法施行の下、選んだのは意外な道だった。当時、約200軒あった特殊飲食店は、売防法施行前の2月に廃業届を提出し、その内の55軒が翌月の3月には料亭として届出を提出したのだ。
その理由は、それまでの遊女たちを芸妓に仕立て、料亭へ派遣する花街として復活の道を選んだのだった。
遊郭が現代にそのまま残った客と仲居のロマンスの街
◯東西二大風俗街の大きな共通点
しかし、置屋から呼ばなくてはならない煩わしさが不評となり、そこで当時、難波などで人気となっていた「アルバイトサロン(以下アルサロ)」を真似て、遊女を仲居として店の玄関に待機させるようにした。すると、これがウケた。
「アルバイト料亭」の人気の理由はもう一つあった。飲み物とおつまみが付いて15分ワンセットという明朗会計である。これは、現在の飛田新地の遊び方と同じである。違うのは、当時は多くの客が2セットで遊んでいたことと、布団ではなく、座布団を並べて敷いていたところである。
売防法施行から約60年が経過した現在、巨大ソープランド街を形成した東京・吉原と、現在も昭和初期の面影を残す遊郭が残る街、大阪・飛田新地は、互いに違う業種で生き残っている。
吉原はなぜ、遊郭として残らなかったのか? 飛田はなぜトルコ風呂を受け入れなかったのか? を考えるよりも、「それぞれがそれぞれの地域で受け入れられる道を選んだ」と考える方が自然である。
そして、ニッポンの二大風俗街が半世紀以上も続いていられる理由は、それぞれの街が定める厳格な規律をマジメに遵守することと、「客と仲居の自由恋愛」という、曖昧な建前文化の恩恵に違いはないようだ。
(記事引用元=ズバ王)
関連商品
ズバ王 2017年07月号
銀座にあった!伝説の超高級中出しソープ 東凛