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ニッポンのソープランドが世界に誇る『FUZOKU』へと成長を遂げた理由とは…? その驚愕の歴史を振り返る【ソープランド進化論!!】(前編)

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出現から4年後には本バンが必須科目に

 オスペから始まったイノベーションは、その後コールドクリームよりは亀頭部に目薬を数滴たらすほうが刺激的だということを発見したことによって小さな技術革新を遂げる。

 オスペがどこのトルコでも常識的なプレイとして定着すると続いては男女双方で弄り合う〝ダブルスペシャル〟略して〝ダブル〟が流行り、さらにパックリとムスコを咥えてズブズブしゃぶるフェラも必須の技術科目にくわえられた。

当時は、写真に修正を加える、いわゆる「パネルマジック」もなかったいい時代だった…

 

 そうこうしているうちに55年の終わり頃から、いよいよ本番がトルコの必須科目に入ってきた。ともかくも本番に関しては経営陣が過剰なまでに神経質になっていた。その分を、他のテクニックやサービスで補おうというわけだ。

 イノベーションは何もテクニックだけではない。例えば各個室のドアには、内部の様子が分かるように窓を付けることが条例によって義務付けられている。これを外から見えないように衣類をドアにかけて隠してしまう〝衣服隠し〟という技が考案され、さらにそれをタオルで隠す〝タオル隠し〟という、少し姑息な革新もあった。

 61年になると吉原にあった「吾妻」のアズマ嬢が、家庭用の木製の風呂椅子を個室に持ち込んでの〝イス洗い〟の原型が考え出された。湯船を背にして椅子に腰かけた客の膝の上に女性がまたがって、オッパイや下腹部にオイルを塗りたくった身体を預けて洗うのである。これは風呂場での作業なのでアライ場の仕事。一方、オスペなどのベッドでの作業はアガリ場の仕事と呼ばれていた。

 同じ頃にトルコのテクに加えられたのが〝リリー・オン・ザ・ヒル〟というオッパイ技だ。おそらく〝リリー・オブ・ザ・バリー〟谷間の姫百合からの転用なのだろう。ここでは乳房にムスコを挟んで摩擦する、俗に言うパイズリのことである。

 68年になると吉原でも街のはずれの京町にある店で人気になったのがアガリ場のテクニックとして登場した〝ベッドマナー〟だ。マッサージ台すなわちベッドの上でのワザである。ゴロリ横になった客の全身をトルコ嬢が時には激しく時には入念に舐めまわすものなのだが、そこに秘術が隠されている。この点は、他の技にも言えることであって世に言う舐める、しゃぶるなど、表現としてはシンプルな響きしか与えられないが、彼女たちの繰り出す技術は等し並みのものではない。

日の出の早朝から深夜0時まで吉原のソープ街は営業しており、バブル時代は人と送迎車で溢れかえっていた

 

 そして技術革新とはいっても技術の開発だけがすべてではない。もちろんそれに見合った機材や道具や薬品などの開発も当然その中に組み込まれてくる。それが前述したように、コールドクリームから目薬への変更であったりする。なかでも流し場で使う椅子の家庭用木製のものから、トルコ専用のプラスチック製〝スケベ椅子〟の登場は画期的だった。

 腰掛ける面の中央部に深く溝が掘ってあって、女の子がお仕事をするには実に便利な形になっている。参考までにプラスチック第1号の商品名は〝らくちん〟と名付けられた。このスケベ椅子を利用してのイス洗いがブームになったのは千葉市のトルコ街・栄町である。1973年のことだった。

(記事引用元=ズバ王

明日3月16日配信の後編へつづく

 

 

 

ズバ王 2017年04月号

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