吉原遊女の投げ込み寺として知られる「浄閑寺」 へ久しぶりに訪れました。
ここにはいくつもの悲しい歴史が詰まっています。
安政2年(1855)
中門をくぐってすぐの場所には、明治の花魁「若紫」
当時は遊女がきちんと墓に埋葬されることは珍しいことでした。
若紫はとても美しく教養も高く性格も優しい女性だったそうです。
働いていた 角海老楼は、当時の新吉原で随一の格式が高い店のひとつ。
人気を極めた若紫は、 一般の遊女より早めに年季があけ吉原を出ることとなりました。
人気を極めた若紫は、
数々の富豪から身請け話がありましたが若紫が選んだのは、 かねてから交際していた恋人。
そんな若紫が晴れて恋人と一緒になることを、 客も楼も盛大に祝福したそうです。
そんな若紫が晴れて恋人と一緒になることを、
ですが、そんな幸福の絶頂から叩き落とす事件が起きます。
ある遊女と無理心中しようとした男が、
血の海に溺れた若紫は、 わずか22歳という若さでこの世を去ったのです。
年季があける五日前のことでした。
墓の上部には「角海老」の文字が彫られています。
墓の上部には「角海老」の文字が彫られています。
寺の中に進むと新吉原総霊塔があり、 鉄格子の中を覗くと骨壷がぎっしり入っていました。
「生まれては苦界、死しては浄閑寺」 花又花酔の川柳が刻まれています。
その先には永井荷風の「今の世のわかき人々」 にはじまる詩碑があります。
荷風は遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて何度も訪れたそうです 。
さらに進むと山谷の日雇い労働者のための「ひまわり地蔵尊」 が立っています。
さらに進むと山谷の日雇い労働者のための「ひまわり地蔵尊」
ひまわりの花は、 太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボル。
お地蔵さんの凛とした温かな姿、そしてこの寺の悲しい歴史、 訪れるたびに心打たれ
忘れてはいけない、 伝えていかなければという思いにさせられるのです。
東京に住んでいても、なかなか足を踏み入れることがない街…男のアソコではなくカメラを握りしめ風俗街を歩き続ける元風俗嬢〜紅子の色街探訪記vol.25・吉原の路地裏