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『ユメノクニ』から『川崎フラ系』まで…ニッポン風俗の影の立役者『ピンサロ』の起源に迫る!!【松本雷太のニッポン風俗史講座 第8回「庶民の味方ピンサロ」】

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庶民男性の遊びどころは
トルコより手軽な「ハワイ」

かつて、長野駅近くにあったピンサロ。まるでキャバクラの様にネオンが賑やか

 

◯高度成長期と共にピンク産業も急成長

 庶民の味方・ピンサロ発祥の説は大きく分けてふたつある。1950年に大阪で発祥という説と、1960年誕生というもので、前記2説には約10年という大きな隔たりがある。そのあたりを、風俗研究家の多々野平助氏はこう語る。

「1950年、大阪・千日前にあった歌舞伎座5階に、『ユメノクニ』というアルサロ(アルバイトサロン)が開店しました。この店がアルサロの発祥ではありますが、発案者であり支配人でもあった磯田敏夫氏によると、この店は今で言うキャバクラ的な飲み屋だとしています。50年説はこの店を最初の店としていますが、ピンサロの発祥はここより後ということでしょう。」

多々野氏がさらにつづける。

「磯田氏はまた作家でもあり、絶妙なキャッチフレーズの中刷り広告が評判となり、店も繁盛したと言われています。ちなみに『アルサロ』は、昼間は会社員として働く女性が、就業後のアルバイトとして働く店なので、顔バレ防止のために店内の照明を暗くしていたようです。照明が暗いのは今のピンサロも同様ですが、その理由は、女のコの顔バレというよりは、客同士の視線が合わない様にだとか、女のコのブサイク度がバレないようにする方がまだまだ大きいのではないのでしょうか」

 以下は筆者の想像だが、『ユメノクニ』開店からほどなくして、同様のアルサロが大阪中のあちこちに開店していった。その中には、より過激なサービスをする店があらわれ、おしゃべりからおさわりへ。おさわりから手コキへ。やがて1960年代にさしかかるころにはポツポツと、口でヌク店が登場するようになった、というところではないだろうか。

 

 そして、その頃には「ピンクキャバレー」や「ネグリジェサロン」など、新しい形態や呼称も現れ、アルバイトサロンからピンクキャバレーへと、サービスも呼称も変わっていった。 「現在と同様の『ピンクサロン』という呼称が初めて登場したのは、1968年、上野(浅草説もあり)に開店した『ハワイ』が初と言われています」(同・多々野氏)

 そして、戦後の高度成長期の集大成とも言える、大阪万博が開催された1970年代に入ると、それまでのプロ風俗嬢とは違う、素人女性がピンサロに多数流入し始めた。そのおかげでピンサロは急速に拡大し、第一次ピンサロ時代を築いていったのだ。

 

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