V&Rプランニングが創立30周年を迎えた。
設立は1986年4月。小林ひとみ、黒木香、秋元ともみがデビューし、ビデオデッキの家庭普及率が40%を超えた年である。最初のAVブームが到来した時期といっていいだろう。
V&Rは、後のイメージからバイオレンス&レイプの略ではないかと言われたりもしたが、実際は…
ビジュアル(映像)&リテイル(小売)の略で、設立当時はスーパーマーケットの経営もしていた。
社長であり、V&Rを代表する監督でもある安達かおるは映像制作会社テレキャスジャパン(カンパニー松尾も在籍していた)のプロデューサーを経て、V&Rプランニングを設立。テレキャスジャパン時代には、残酷ドキュメンタリー映画として話題になった「ジャンク」(1980年公開)などを手がけていた。この路線は後にV&Rでも「デスファイル」シリーズとして継続する。
安達監督は小学生時代をイランの首都テヘランで過ごしている。この頃に街で公開処刑を目撃。それが人間の死に対する興味や関心として深く心に刻まれた。綺麗な言い訳をとっぱらった人間の本性を追求するという安達監督の作風の原点である。
「おれは人が目をそむけるものが好きなんだよね。人が気持ち悪くなるモノの方がおもしろい。なぜ気持ち悪くて目をおおいたくなるのか? そこに何かあるのではないか」
安達監督が、暴力やスカトロ、タブーなどにこだわり続ける理由である。
初代葵マリーが監督した「SM調教24時間」(1986年)や獣姦モノ「男と女のアニマルゲーム」(1987年)などマニアックな作品をリリースしていた黎明期のV&Rに初のヒット作が産まれる。伊勢鱗太郎監督による「侵犯」(1987年)である。そのあまりのリアルなレイプシーンに、写真週刊誌が「本物の強姦ビデオでは?」と報道したことから話題となり、注文が殺到した。
またこの年には「ジーザス栗と栗鼠スーパースター」という大ヒットシリーズが産まれる。一人の女優を数十時間に渡ってからませ、気力と体力の限界に挑むというハードプレイAVの元祖的作品だ。第一作の後藤沙貴編から始まり、2013年の琥珀うた編まで、よりハードな「ブラックジーザス栗と栗鼠スーパースター」などのサブシリーズを含めると、約30作が作られた。特に第5作となる樹まり子編(1990年)は空前の大ヒットを記録した。
初期のV&Rのもうひとつのヒットシリーズが「蒼奴夢の宴」だ。1986年リリースの第一作「蒼奴夢の宴 セーラー服皮人形」は女子校生SM物だったが、次第に架空の学校、蒼奴夢学園を舞台にした群像劇となり、本物のマニアが多数出演する大作シリーズとなっていった。
1988年には、カンパニー松尾が「あぶない放課後2」で監督デビュー。カンパニー松尾は1987年にV&Rに入社し安達監督のADを務めていた。監督デビューの時、まだ松尾は22歳の若さであった。初期の松尾監督の作品は、MTV風のカラフルな映像処理が目を引く作風で、後に彼の代名詞となるハメ撮りはまだ使われていない(ハメ撮りがAVで一般的になるのは90年代から)。それでも、あの独特なセンチメンタルなムードは既に作品から漂っていた。
そして1990年にはバクシーシ山下がリアルすぎるレイプシーンで話題を呼んだ「女犯」で監督デビュー。続編の「女犯2」は人権団体がやり玉にあげるなど社会的問題にもなった。
安達かおる、カンパニー松尾、バクシーシ山下の三人の監督が揃ったV&Rプランニングは一躍AV業界の台風の目となった。辛口の評論で知られる「ビデオ・ザ・ワールド」(コアマガジン)選出の1991年度上半期アダルトビデオベスト10では、1位が安達かおる「これが手術だ!メスをくわえれば幸せ」、2位がバクシーシ山下「錯乱!!監禁凌辱72時間」、3位がカンパニー松尾「どですかでんぶ2」と上位三位をV&Rが独占した。
1991年にはカンパニー松尾がライフワークとなるシリーズ「私を女優にして下さい」を開始し、ハメ撮り監督としての地位を確立するが、1995年にV&Rを退社し、フリー監督となる。翌1996年にはバクシーシ山下も退社する。
二人の看板監督を失ったV&Rだが、そこで失速することはなかった。その下の世代にも有能な監督たちが育っていたのだ。
《後半へ続く》