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【宍戸里帆の淫鬱な楽園Vol.2「消えないで、憂鬱」】アダルトの世界にまつわる事象を新人女優の宍戸里帆が連載!今回は「自慰行為後の憂鬱」を学術的かつ叙情的に分析!

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以前、自身のnoteで「コンプレックスは世界があなたについた嘘」という投稿をした際に、私から見たAVの世界について書いたことがありました。

"コンプレックス"は、世界があなたについた嘘。|りぽ@ AV女優になった大学生(宍戸里帆)

 

同じことを繰り返すようにはなりますが、私自身AVの世界に夢や希望、キラキラとした幻想や憧れを抱いてやってきた訳ではありません。
むしろそれらとはまったく逆の、何か影のような印象に包まれており、そんな暗がりの魅力に強く惹かれています。
私が思うに、その影の正体とは、誰もが内に秘めている人には言えない心の歪み。
それらは、“穢れ”。

そんな穢れを悪と見做し一掃するのではなく、穢れは穢れのまま受け入れるのがAVの“性”なのだと感じています。
その事実にこれまで一体どれだけの人が救われてきたことか。
私には想像するまでもないことでした。
なぜならそんな私こそ、穢れを肯定して生きられる世界を求め、自分の力で“モザイクの向こう側”にやってきた張本人なのだから。
私には、全ての穢れを抱え込み、代わりに贖い慰め続けるAVの世界の優しさと罪深さが、この世の楽園にしか思えなかったのです。

穢れはそれ自体、“いけない”ものだと見て見ぬふりをされてきました。
危ない、稚い、汚い、だらしない、はしたない、忙しない、揺るぎない、仕方ない、忍びない、切ない、儚い・・・。
此処は、“ない”ことにおいて限りない、欠如の楽園。
その上では、なにかが病的なまでに剥落しているのではなく、そもそもAVの世界そのものが膨大な“ない”ものによって構築されている。
冒頭で引用した阿部氏の言葉は、そう言い換えることも可能かもしれません。
ただ、この楽園を満たしているのが単に不足の側面だけではないのもまた事実です。

では、そこに“ある”ものは何か。

それは、澄み切った“憂鬱”の予感。
ここでの“憂鬱”とは、全ての人間が共通して抱いている“健全な憂鬱”を指しています(※2)。

この時代、この話題で“健全”という言葉を使うことに何の躊躇もない訳ではありませんが、あえてそう書くことにしましょう。
私達は、そこに映っているものがつぎはぎのかりそめであることを知りながら、AVの世界の中にいつも理想の“性”を追い求め彷徨っている。
ただ、そこにはグロテスクなまでにリアルな“生”が確かに息衝いており、この矛盾した二つの事実がごく自然な憂鬱を引き起こすのです。
その最たる例、それはオナニーにおける憂鬱。

 

あまり意識することのない話かもしれませんが、オナニーを取り巻く形態の遷移は、技術の進歩とそれに伴う生活環境の変化によって着実に世代間による価値観のギャップを生んでいます。
レンタルが主流であった時代は、一本のAVを借りるためにレンタルビデオショップに出向き、パッケージを吟味する途方もない作業に適当なタイミングで諦めをつけ、己の性欲が突き動かす直感を信じて選んだAVを棚から引っ張り出す。
それを興味のない映画の間に挟んでレジに持っていき、そっけない態度を装ってそれ相応の代金を支払う。
そうして借りた“VHS”を家に持ち帰り、家族のいない時間帯を狙ってデッキにセットする。
見終わったら最後、返却時にはテープを巻き戻さなければいけないことに気付いて不甲斐ない気持ちになる。
オナニーを遂行するまでにかかる時間も手間も、いまとなっては愛おしいものだったと思える時代になったように感じるが、ティッシュの中に掃き溜めたメランコリアを永遠に放置してはおけない。

 

現代において、オナニーに対する意識はどう変化しているでしょうか。

家の中、それ以上に、片方の手の中だけで済ませてしまおうと思えば、それが容易に出来る“便利”な世の中で、いまの若者にとってオナニーも非常に“convenient”なものになっていることは確かなはず。
オナニーにおける時間・場所の煩わしき縛りは解かれ、快楽の享受の仕方はより独自性を増した自由なものへと変化し続けています。
しかし、オナニーの在り方が変わろうともそれに付随する憂鬱は常に我々の背後に潜んでいる。

なぜなら、私達がこの事実を反芻する時、AVにおける女優の“不在”を強く感じずにはいられないから。
前述したように、そこには生々しくも魅惑的な肉体のあられもない容態がはっきりと記録されているのだが、彼女達は本質的には不在なのだ。

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